『「大岡裁き」の法意識』青本人志
- 作者: 青木人志
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2005/04/15
- メディア: 新書
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「大岡裁き」はご存じですか?
『広辞苑』によると、「公正で人情味のある裁定・判定」のことだそうだ。
では、「大岡裁き」の法意識とは?
・裁判所はこわい(いやな)場所である
・裁判官は人格者であるべきだ
・杓子定規でない、柔軟な解決をすべきだ
・金銭を請求するのは、強欲だ
・もめごとは、個人の問題ではなく、みんなの問題である
・勝者と敗者をはっきりさせず、「まるく」おさめるほうがいい
といった具合に、多くの人が裁判や法律に対してもつ認識のことだそうな。
この本では、
日本法の歴史そのものと、日本人の法意識を振り返りつつ、
「大岡裁き」や「お白州裁判」に代表される伝統的固有法と
それに対応する日本的法意識が、それぞれ表層と深層において
どのように変容をとげたのか、あるいは遂げなかったのか
を考えていく。
私も以前は、大岡裁きこそ裁判の役割のようであるかのように理解していた。
なんてったって、裁判所なんてめったに行くことなんてないし、入ってくる情報といえば、ドラマチックに描かれたテレビの映像のみだからだ。
でもまぁ、今となっては、私には、裁判所は「法の番人」であるとしか映らない。
でもそのことに気が付いたのは、法律や国の機構を学び、裁判とは何かをしっかり考えることができたからだ。
そもそも、我が国の法律は西洋からの輸入ものであり、徐々にではあるが、(おそらく「大岡裁き」自体を知らない人が増えるに従って)
日本の法意識は「大岡裁き」から離れつつあるにしても、依然として、日本人の法意識にはなにごとも「まるく」おさめる精神が居座っているように思う。
日本の社会、いや世間(・・・)という「肉体」に、
西洋流自己責任の体系の衣類を隅々までフィットさせることは、
一朝一夕で可能なことではない。
裁判員制度が導入されて久しい。
西洋から輸入した法律を、西洋の法意識のもとに作られた西洋流の制度により、
法を学ばない一般人が、果たして、法の番人となりうるのだろうか?
私は、裁判員制度には、反対だ。
(もう導入されてますけど、廃止してほしいなぁー)
ただ、きちんとした制度の説明と教育がなされれば、話は別だ。
しかしながらそれは、日本人が西洋人みたくなって、権利義務を見極めろというのと同じで、「まるく」おさめることを好む日本人が「和の精神」を捨て去ることになりかねないのではないかなぁと思ってみたりするのである。
そうまでして、裁判員制度を維持すべきかどうかは、大いに疑問であり、裁判員制度に興味のある方には、ぜひ読んでもらいたい一冊である。